人生初めての恋(片思い)です。コメント No.87298
すうもさん、初めまして。
「何でも(厳しい意見でも)良いので意見が聞きたい」
「ぐっどうぃる博士の理論で意見が聞きたい」
とのことですので、コメント失礼いたします。
初めての片思いということで、片思い含め、恋愛自体は人生を彩る素敵なものですので、是非とも応援するようなコメントを残せたらとは思ったのですが…。
ご相談を拝見する限りは、未だ何も「始まっていない」状態であるようですね。
私は、身近にこの手の関係者がおり、通常よりは彼の境遇や内部の事情がかなり分かる立場であると思いますので、その点も含めてコメントさせていただきます。
ぐっどうぃる博士もおっしゃっていることですが、まず、恋愛もとい片思いを上手くいかせるためには、とにもかくにも「相手のことをよく知る」ということが欠かせません。
相手のことを少しでも多く知ることによって、相手が何を求めているのか、求めていないのかが分かるようになり、自分の取るべき行動や振る舞いも自ずと分かるようになる、ということです。
その点から申し上げますと、彼の場合、半分公人のような立場でありますから、このまま普通に生活をしていても、ある程度の情報は得られるのではないかと思います。
その上で、Vitzさんもおっしゃるように、既に彼に特定の相手やその候補がいないかどうかを確認することは重要です。
規模はどうあれ、田舎のお寺ということであれば、後継ぎとなる彼の配偶者云々(見合いや結婚の予定があるなど)は良かれ悪かれ必ず噂になって、すうもさんの耳にも入ってくる機会があるのではないかと予想されます。
それも踏まえながら、彼のお寺というのはどんな宗派でどの程度の規模であるのか(檀家数である程度の規模が分かります)、彼が後を継ぐとしたらいつ頃になると予想されるか(現在のご住職の年齢や体調等ですね)、現時点で後を継ぐ資格はあるのか…、現状どの程度お寺の仕事や経営に関わっているのか…等々そういった細かい部分も分かるとなお良いかもしれません。
その上で、すうもさんに今後彼と近づける余地がありそうか、一度冷静になって考えてみてはどうかなと思います。
ちなみにですが、宗派にもよるものの、副住職というのは多くの場合通称で、然るべき資格がなくても問題なく名乗ることができる、ある種都合の良い言い方です。
(参考までに、住職を務めるには、通常の僧侶資格の上乗せという形で特別な資格が必要ですが、副住職の場合、その資格がなくても務まる事が多かったりします)
ただ、詳しくは後述しますが、すうもさんの方から積極的にお寺に通い詰める過程で、お寺の内情を聞き出したりすることはあまりお勧めできません。
まず、そのご住職とすうもさんのお祖母様の関係が、気になるところです。
10年ほどの付き合いとのことですが、檀家関係ではないのだとしたら、何も考えずに近づき過ぎると、文字通り思わぬ火傷の元にならないとも限りません。
たとえ檀家であるとしても、田舎の方で10年程度の檀家というのは、かなり付き合いや関係が浅い部類に入るはずです。
(お寺の規模や歴史にもよりますが、先祖代々、数百年単位の付き合いも珍しくなかったりします)
もちろん、最近は檀家になりたいというだけで大歓迎されるべき時代ですし、付き合いの浅さ深さで露骨に扱いを差別するようなお寺はそもそも論外だとは思いますが、お寺を離れたところでの檀家同士の付き合いの難しさというのは、多少残っている地域もあったりするかもしれません。
また、お寺の内情というのは、Vitzさんもおっしゃるようにかなりデリケートな内容も含んでいるため、あまり積極的に踏み込むべきところだと言えない部分も多々あります。
その上で申し上げますと、
すうもさんが彼にときめくきっかけとなった、
○お参りの方に対し、にこやか、親切に接する
○参拝を勧める
といった対応というのは、彼はただ仕事をこなしただけに過ぎず、何ら特別なものだとは言えません。
更に
○写経の趣味を受け入れてもらえた
という点に関しても、実際のところはただの「傾聴」の一環であろうことが推測され、これもまた何一つ特別なことだとは言えません。
(宗派によっては、そもそも写経の習慣がなく、安易にすべきでない、と考えられている場合もあります。)
僧侶というのは、Vitzさんの指摘するような裏の顔も全くないとは言えませんが、仮にも世間一般では「聖職」と呼ばれるような仕事ですから、これくらいの対応はきちんとできて当たり前、というほかないのです。
言うなれば、すうもさんの現状というのは、美容師さんや店員さんに「ビジネス上で」良い対応をされ、一方的に惚れてしまった構図とほぼ等しい、ということになります。
このサイトでも、時々こういった、店員さんや美容師さん等々への片思い相談を見受けますが、その後うまく行った、成就したという話もあまり聞かないため、これ自体難易度が高い案件だと言えるでしょう。
更に踏み込んだ話になってしまいますが、大変な失礼を承知で、すうもさんはこれまで、人から
「ちょっと変わっている」
といったような評価をまま受けることがあったり、もしくはどうも周囲と会話が噛み合わない気がする、といったようなことはありませんか。
何故ならば、ご相談を拝見していて、すうもさんのある種独特な言葉選びや内容が感じ取れ、些か気になってしまったのです。
率直に申し上げますと、意思疎通を図ることが極端に苦手そうな印象を受けました。
例えば、彼に対して、
>周りのコネがあったとしても我慢強い人だなと、子供ながらに思った記憶
とのことですが、
当初、この「周りのコネ」という言葉遣いがよく分かりませんでした。
何度も拝読して、
周囲から生まれながらにして職業の選択権がないに等しい境遇なおかつ
「後を継ぎなさい」という無言のプレッシャーがありながら、(意に介さず今の道を選んだ彼が)不憫であり、なおかつ我慢強い人に思えた、といった意味なのかと推測しましたが、おおよそこんな感じでしょうか?
ただ、そう考えていた子ども時代には、彼と言葉を交わしたこともなかったということですから、すうもさんが一方的に抱いていた彼のイメージと、今の彼の人となりとは何ら関連しないですし、全てはすうもさんの憶測の域を出ていませんから、彼を知るためのヒント、情報にさえもなっていませんよね。
よく読むとあまり重要な情報ではないにも関わらず、かなり意味深に書かれていたように思ったので、戸惑ってしまいました。
同様に、お祖母様の性格やお祖母様とお母様が不仲である、ということも、そこそこ行数を割いて書かれていますが、今回の相談とは全く関係なく、わざわざ伝えなくても問題ない内容ではないかと感じます。
更に言いますと、先にも書きましたが、お寺で受けた彼からの対応というのは、そんなに特別なものではないと思うのです。
そして、写経のご趣味というのも、昨今プチブームにもなっている印象ですし、少数派であったとしても、そう変わったものでもないように思えます。
それでも、「受け入れてもらえた」ように思えた(実際のところは分かりませんが)ということが、すうもさんの中ではそんなに特別なことだった、ということなんですよね。
これが、異性から受け入れてもらえた(ように思えたのが、嬉しかった)、という事であれば、まだ意味が分かるのですが、やや唐突な印象を受けました。
ただ、
相談文の最初で
>自分に恋愛は無縁だと思っていた
とも書かれていたので、これまでのご経験から既にそう決め込んでいらっしゃるように感じたのも、すうもさんの中には、ある種決め込まれた軸や世界観(こだわり)のようなものがある、ということなのかなと解釈しました。
となると、すうもさんの軸や世界観と、世間一般の軸や世界観というのは、すうもさんが考えている以上にずれているのかもしれません。
どうしてこんな事を失礼を承知でわざわざ書いたのかと言いますと、すうもさんが彼を通して近づきたいと望んでいらっしゃるお寺の世界というのはとても独特かつ狭い世界であって、
「(誰から何を言われずとも)決められた枠組みや軸にきちんと収まる」
能力がどうしても求められるように思うからです。
その意味で、少しでも彼とお近づきになりたくて今回すうもさんが自ら起こされた行動というのは、もしかしたらかなりまずかった可能性を感じてしまいました。
>除夜の鐘を始まりから最後まで参加し、20回くらい撞いて良いお年をとお話しした事、
これに関しては、宗派やお寺そのもので習わしも常識もやり方も全く違いますので一概には言えず、私の紀憂であれば良いのですが…
寺族関係者の方や役員の方から直接
「○回ほど撞いてください」と頼まれた経緯があったり、他の参拝客も同程度撞いているようならば何の問題もないのですが、ほぼ一見の参拝客が、たったひとりで鐘を延べ20回余りも撞く、という行為は、(詳しい背景や事情を知らずに)この事実だけを聞くとかなり異様な光景に映ります。
先に挙げた寺族関係者や役員でもない限り、お寺の鐘というのは本来、一般の人がそう何度も鳴らすようなものではないからです。
108回きっかり数えて撞くお寺、参拝客に任せるお寺、もっとたくさん撞くお寺…それこそ色々あるとは思いますが、各所平均約100回前後撞くとして、その5分の1にも当たる延べ数を、一見に等しい参拝客がたったひとりで撞くというケースは、私の知る他の寺院関係者含め、これまで見たことも聞いたこともないので驚いた次第です。
私の馴染みのところは特に数を数えませんが、100人以上来られる参拝客は、(誰が決めたわけではありませんが)ひとりにつき1回ですし、鐘に興味津々の子どもたちであっても、例えば並び直してまで何度も撞くようなことはしていないくらいですね。
もしも、私のところでこのようなケースが見られれば、あっという間に顰蹙もので、随分変わった人だと噂になってしまう恐れさえあります。
何度も申し上げますように、きちんとした経緯があるならば話は全く別ですが(108回に足りないので、何周もして欲しいと頼まれた等)、肝心な部分がないままに事実だけを書いてしまうと、ところ変わればそういう風に捉えられる可能性もある、ということです。
>〇〇寺御中にすべきだったと今になって反省しています。
これも、そう大した問題ではないですし、反省のポイントがややずれているのかなと…
ちなみにですが、お寺において御中は間違いではないものの、営業目的のDMで時々見かける程度で、あまり一般的な使い方でもありません。
○○寺(ご住職)様で充分ですし、特に親しい間柄ではない場合、俗名等で宛てた方がかえって失礼にあたる場合もあります。
こういうことですので、場合によってはこれ以上、すうもさんが独断で行動を起こして彼のお寺に踏み込むのはリスクがあるかもしれないと思い、失礼を承知で敢えて書かせていただきました。
感情のままに綴ることが多い相談文ですから、枝葉の部分が多少みられることは仕方がないにしても、肝心なことが書かれていないと、このように誤解や誇大解釈を生んでしまうかもしれないということです。
仮に思い当たる点があるとしても、謝罪の手紙等を書けばますます話がおかしくなる可能性さえあります。
Vitzさんも指摘されていますが、もしも彼への下心がばれてしまうと本当に取り返しがつかなくなり、お祖母様とご住職の関係性さえ壊れる危険性があるほどです。
いずれにしても、お祖母様と一緒に、お寺の年中行事に慎ましく参加する、程度に留めておいてはいかがでしょうか。
大変失礼いたしました。
「何でも(厳しい意見でも)良いので意見が聞きたい」
「ぐっどうぃる博士の理論で意見が聞きたい」
とのことですので、コメント失礼いたします。
初めての片思いということで、片思い含め、恋愛自体は人生を彩る素敵なものですので、是非とも応援するようなコメントを残せたらとは思ったのですが…。
ご相談を拝見する限りは、未だ何も「始まっていない」状態であるようですね。
私は、身近にこの手の関係者がおり、通常よりは彼の境遇や内部の事情がかなり分かる立場であると思いますので、その点も含めてコメントさせていただきます。
ぐっどうぃる博士もおっしゃっていることですが、まず、恋愛もとい片思いを上手くいかせるためには、とにもかくにも「相手のことをよく知る」ということが欠かせません。
相手のことを少しでも多く知ることによって、相手が何を求めているのか、求めていないのかが分かるようになり、自分の取るべき行動や振る舞いも自ずと分かるようになる、ということです。
その点から申し上げますと、彼の場合、半分公人のような立場でありますから、このまま普通に生活をしていても、ある程度の情報は得られるのではないかと思います。
その上で、Vitzさんもおっしゃるように、既に彼に特定の相手やその候補がいないかどうかを確認することは重要です。
規模はどうあれ、田舎のお寺ということであれば、後継ぎとなる彼の配偶者云々(見合いや結婚の予定があるなど)は良かれ悪かれ必ず噂になって、すうもさんの耳にも入ってくる機会があるのではないかと予想されます。
それも踏まえながら、彼のお寺というのはどんな宗派でどの程度の規模であるのか(檀家数である程度の規模が分かります)、彼が後を継ぐとしたらいつ頃になると予想されるか(現在のご住職の年齢や体調等ですね)、現時点で後を継ぐ資格はあるのか…、現状どの程度お寺の仕事や経営に関わっているのか…等々そういった細かい部分も分かるとなお良いかもしれません。
その上で、すうもさんに今後彼と近づける余地がありそうか、一度冷静になって考えてみてはどうかなと思います。
ちなみにですが、宗派にもよるものの、副住職というのは多くの場合通称で、然るべき資格がなくても問題なく名乗ることができる、ある種都合の良い言い方です。
(参考までに、住職を務めるには、通常の僧侶資格の上乗せという形で特別な資格が必要ですが、副住職の場合、その資格がなくても務まる事が多かったりします)
ただ、詳しくは後述しますが、すうもさんの方から積極的にお寺に通い詰める過程で、お寺の内情を聞き出したりすることはあまりお勧めできません。
まず、そのご住職とすうもさんのお祖母様の関係が、気になるところです。
10年ほどの付き合いとのことですが、檀家関係ではないのだとしたら、何も考えずに近づき過ぎると、文字通り思わぬ火傷の元にならないとも限りません。
たとえ檀家であるとしても、田舎の方で10年程度の檀家というのは、かなり付き合いや関係が浅い部類に入るはずです。
(お寺の規模や歴史にもよりますが、先祖代々、数百年単位の付き合いも珍しくなかったりします)
もちろん、最近は檀家になりたいというだけで大歓迎されるべき時代ですし、付き合いの浅さ深さで露骨に扱いを差別するようなお寺はそもそも論外だとは思いますが、お寺を離れたところでの檀家同士の付き合いの難しさというのは、多少残っている地域もあったりするかもしれません。
また、お寺の内情というのは、Vitzさんもおっしゃるようにかなりデリケートな内容も含んでいるため、あまり積極的に踏み込むべきところだと言えない部分も多々あります。
その上で申し上げますと、
すうもさんが彼にときめくきっかけとなった、
○お参りの方に対し、にこやか、親切に接する
○参拝を勧める
といった対応というのは、彼はただ仕事をこなしただけに過ぎず、何ら特別なものだとは言えません。
更に
○写経の趣味を受け入れてもらえた
という点に関しても、実際のところはただの「傾聴」の一環であろうことが推測され、これもまた何一つ特別なことだとは言えません。
(宗派によっては、そもそも写経の習慣がなく、安易にすべきでない、と考えられている場合もあります。)
僧侶というのは、Vitzさんの指摘するような裏の顔も全くないとは言えませんが、仮にも世間一般では「聖職」と呼ばれるような仕事ですから、これくらいの対応はきちんとできて当たり前、というほかないのです。
言うなれば、すうもさんの現状というのは、美容師さんや店員さんに「ビジネス上で」良い対応をされ、一方的に惚れてしまった構図とほぼ等しい、ということになります。
このサイトでも、時々こういった、店員さんや美容師さん等々への片思い相談を見受けますが、その後うまく行った、成就したという話もあまり聞かないため、これ自体難易度が高い案件だと言えるでしょう。
更に踏み込んだ話になってしまいますが、大変な失礼を承知で、すうもさんはこれまで、人から
「ちょっと変わっている」
といったような評価をまま受けることがあったり、もしくはどうも周囲と会話が噛み合わない気がする、といったようなことはありませんか。
何故ならば、ご相談を拝見していて、すうもさんのある種独特な言葉選びや内容が感じ取れ、些か気になってしまったのです。
率直に申し上げますと、意思疎通を図ることが極端に苦手そうな印象を受けました。
例えば、彼に対して、
>周りのコネがあったとしても我慢強い人だなと、子供ながらに思った記憶
とのことですが、
当初、この「周りのコネ」という言葉遣いがよく分かりませんでした。
何度も拝読して、
周囲から生まれながらにして職業の選択権がないに等しい境遇なおかつ
「後を継ぎなさい」という無言のプレッシャーがありながら、(意に介さず今の道を選んだ彼が)不憫であり、なおかつ我慢強い人に思えた、といった意味なのかと推測しましたが、おおよそこんな感じでしょうか?
ただ、そう考えていた子ども時代には、彼と言葉を交わしたこともなかったということですから、すうもさんが一方的に抱いていた彼のイメージと、今の彼の人となりとは何ら関連しないですし、全てはすうもさんの憶測の域を出ていませんから、彼を知るためのヒント、情報にさえもなっていませんよね。
よく読むとあまり重要な情報ではないにも関わらず、かなり意味深に書かれていたように思ったので、戸惑ってしまいました。
同様に、お祖母様の性格やお祖母様とお母様が不仲である、ということも、そこそこ行数を割いて書かれていますが、今回の相談とは全く関係なく、わざわざ伝えなくても問題ない内容ではないかと感じます。
更に言いますと、先にも書きましたが、お寺で受けた彼からの対応というのは、そんなに特別なものではないと思うのです。
そして、写経のご趣味というのも、昨今プチブームにもなっている印象ですし、少数派であったとしても、そう変わったものでもないように思えます。
それでも、「受け入れてもらえた」ように思えた(実際のところは分かりませんが)ということが、すうもさんの中ではそんなに特別なことだった、ということなんですよね。
これが、異性から受け入れてもらえた(ように思えたのが、嬉しかった)、という事であれば、まだ意味が分かるのですが、やや唐突な印象を受けました。
ただ、
相談文の最初で
>自分に恋愛は無縁だと思っていた
とも書かれていたので、これまでのご経験から既にそう決め込んでいらっしゃるように感じたのも、すうもさんの中には、ある種決め込まれた軸や世界観(こだわり)のようなものがある、ということなのかなと解釈しました。
となると、すうもさんの軸や世界観と、世間一般の軸や世界観というのは、すうもさんが考えている以上にずれているのかもしれません。
どうしてこんな事を失礼を承知でわざわざ書いたのかと言いますと、すうもさんが彼を通して近づきたいと望んでいらっしゃるお寺の世界というのはとても独特かつ狭い世界であって、
「(誰から何を言われずとも)決められた枠組みや軸にきちんと収まる」
能力がどうしても求められるように思うからです。
その意味で、少しでも彼とお近づきになりたくて今回すうもさんが自ら起こされた行動というのは、もしかしたらかなりまずかった可能性を感じてしまいました。
>除夜の鐘を始まりから最後まで参加し、20回くらい撞いて良いお年をとお話しした事、
これに関しては、宗派やお寺そのもので習わしも常識もやり方も全く違いますので一概には言えず、私の紀憂であれば良いのですが…
寺族関係者の方や役員の方から直接
「○回ほど撞いてください」と頼まれた経緯があったり、他の参拝客も同程度撞いているようならば何の問題もないのですが、ほぼ一見の参拝客が、たったひとりで鐘を延べ20回余りも撞く、という行為は、(詳しい背景や事情を知らずに)この事実だけを聞くとかなり異様な光景に映ります。
先に挙げた寺族関係者や役員でもない限り、お寺の鐘というのは本来、一般の人がそう何度も鳴らすようなものではないからです。
108回きっかり数えて撞くお寺、参拝客に任せるお寺、もっとたくさん撞くお寺…それこそ色々あるとは思いますが、各所平均約100回前後撞くとして、その5分の1にも当たる延べ数を、一見に等しい参拝客がたったひとりで撞くというケースは、私の知る他の寺院関係者含め、これまで見たことも聞いたこともないので驚いた次第です。
私の馴染みのところは特に数を数えませんが、100人以上来られる参拝客は、(誰が決めたわけではありませんが)ひとりにつき1回ですし、鐘に興味津々の子どもたちであっても、例えば並び直してまで何度も撞くようなことはしていないくらいですね。
もしも、私のところでこのようなケースが見られれば、あっという間に顰蹙もので、随分変わった人だと噂になってしまう恐れさえあります。
何度も申し上げますように、きちんとした経緯があるならば話は全く別ですが(108回に足りないので、何周もして欲しいと頼まれた等)、肝心な部分がないままに事実だけを書いてしまうと、ところ変わればそういう風に捉えられる可能性もある、ということです。
>〇〇寺御中にすべきだったと今になって反省しています。
これも、そう大した問題ではないですし、反省のポイントがややずれているのかなと…
ちなみにですが、お寺において御中は間違いではないものの、営業目的のDMで時々見かける程度で、あまり一般的な使い方でもありません。
○○寺(ご住職)様で充分ですし、特に親しい間柄ではない場合、俗名等で宛てた方がかえって失礼にあたる場合もあります。
こういうことですので、場合によってはこれ以上、すうもさんが独断で行動を起こして彼のお寺に踏み込むのはリスクがあるかもしれないと思い、失礼を承知で敢えて書かせていただきました。
感情のままに綴ることが多い相談文ですから、枝葉の部分が多少みられることは仕方がないにしても、肝心なことが書かれていないと、このように誤解や誇大解釈を生んでしまうかもしれないということです。
仮に思い当たる点があるとしても、謝罪の手紙等を書けばますます話がおかしくなる可能性さえあります。
Vitzさんも指摘されていますが、もしも彼への下心がばれてしまうと本当に取り返しがつかなくなり、お祖母様とご住職の関係性さえ壊れる危険性があるほどです。
いずれにしても、お祖母様と一緒に、お寺の年中行事に慎ましく参加する、程度に留めておいてはいかがでしょうか。
大変失礼いたしました。
- [年齢非公開]
- Mammie ランク圏外
※「人生初めての恋(片思い)です。」の全コメント
- すうもさん、はじめまして。
初恋で片想いということで失礼ですが
これまで男性とお付き合いされ…
Vitz -- (No.87289) 2020-01-02 18:08 - すうもさん、初めまして。
「何でも(厳しい意見でも)良いので意見が聞きたい」
「ぐっどうぃる...
Mammie -- (No.87298) 2020-01-03 07:35