本気で好きな相手にはどんな人でも優しくなるのか
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相談者が望んでいるコメント
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・何でも良いので意見が聞きたい
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投稿内容
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最近読んだある恋愛指南書に、
「男性が、彼女や妻がピンチのとき助ける姿勢を見せなかったり、普段から適当だったり冷たい扱いをしてくるような場合は
間違いなくその彼女(または妻)のことを大切に思っていない。
どんなに周りから責任感がないように見られたり、人として冷たいと思われてきた男性でも
本当に好きな女性をパートナーにしたとき必ず変わる」
ということが書いてありました(かなり要約してあります)。
私自身、自分に気のない男性を猛烈に追いかけ回して情で彼氏になってもらい、
当然愛されていないため交際初期からよく否定され、適当に扱われながらこの数年を過ごしてきたので、上記の記述は非常に腑に落ちました。
しかし世の中には、男性側からのアプローチで付き合ったり結婚したりして
ちゃんと相手の男性を愛して大切にしていて、かつ外見も人間性もどこをとっても大切にされない理由が見当たらないような女性が
男性側からとんでもなく理不尽な扱いを受けているケースが存在しますよね。
男女逆でも同じことが言えると思います。
そういったものを見聞きすると、一概に
「本気で愛されていれば大切にされる」とも言えないのかなと思いました。
例えば、どんなに相手を愛していても、それを相手に伝わるように表現する方法がわからない人もいるのかもしれない、などと考えるようになりました。
私の彼氏(と言えるのかも微妙ですが)の場合は、過去に本当に好きになって付き合った女性にはとても優しかったそうです(当時を知る第三者から聞きました)。
なので今の私に対する適当な態度の理由は、ただ単純に「愛していないから」に尽きるのですが、
この先もし彼のほかに私と付き合ってくれる人が現れて、また冷たくされた場合
「やはり私には愛されない決定的な原因がある」と捉えるべきなのか
「私にも原因があるが、交際相手にこんな態度しかとれない側にも問題がある」
と捉えてもよいのか、最近考えるようになりました。
今は彼氏に依存してしまっていて、違う人を好きになる自分が想像できないことと
この先自分と付き合ってくれる男性など現れないのではと感じることから、彼氏と別れられず、いつ捨てられるのだろう…と日々落ち込みながら暮らしている状態なのですが
将来に思いを馳せたときに、彼氏への依存を脱却した後のことが不安になります。
長くなってしまいましたが、タイトルにあるように
「本当に好きなら絶対優しくするものか?」
また「大切にされないからといって、自分だけに大きな欠陥があると考えなくてもよいのか?」
コメント、ご意見をいただきたいです。
よろしくお願いいたします。
読んでいただきありがとうございました。
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>「(男性は)本当に好きなら絶対優しくするものか?」
>「(男性に)大切にされないからといって、自分だけに大きな欠陥があると考えなくてもよいのか?」
大前提として、相手の男性をいくら分析して理解しても、「おデブさんが」彼といて幸せじゃないと意味がない!です。
シンプルに「冷たくしない男性」を選びましょう。
一般論では、男性は好きな女性には優しいです。しかし、付き合いの長さや深さによっては、女性側の視点から見ると、突き放されたように感じたり、疎外されたと感じる場面も有ります。
男性側の単なる説明不足、生育歴、自己中心的な動機なのかも知れないし、女性側の理解力や受け取り方に問題があるのかも知れない。何事にも「絶対」はありません。
あと、「(次の彼氏に)また冷たくされたらどう解釈すれば」という気持ちの準備、本当にいりますか?
まだ出会ってもいない男性に、冷たくされる前提で考えて、ビクビクしてしまう自分のネガティブさ、自信のなさを改めたほうが、冷たくする男の心理を分析して、冷たくされる自分を理屈でねじ伏せるよりも有効な時間の使い方ではないですか?
今までの辛い経験から、冷たくする男性の心理を理解しないと安心できないのでしょうが、まだお若いし、そんな心配とは無縁の、気楽な人生も選べるはずです。
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コメント失礼します。
先の回答者さんの通り私も呼びづらいので、相談者さんと呼びますね。
私も同意見で、一概には言えないと思います。もし愛されていないから大切にされていなかったとしても、次の人も同じように大切にされないわけでもなく、その人とは合わなかっただけです。一方の好みと他方の性質、愛し合えないのには双方に原因があります。相談者さんの言う通りそもそも愛せない、大切にできない性質の人もいます。どちらが悪いということばかり考えても仕方がないように思います。
相談者さんが例にあげていた、魅力的な女性でも大切にされないこともあるという話も、好みが合わなかったとか、魅力は十分だけど関係の築き方が間違っていたなど理由があります。世間でいう魅力が必ず愛される理由にはならず、逆に疎まれがちな性質もある人には強烈な魅力になったりします。
私はメンヘラなのでほとんどの男性にはまず嫌われるでしょうが、今の恋人はそういうところに惹かれているような気がします。やりすぎると怒られますが。ただそういう人ってめちゃくちゃ珍しいわけではなく、他の人の話を聞くとやっぱり一定数います。
そして一番大事なのは関係の築き方で、好みだったとしても舐められるようなことをすれば舐めてもいい相手だと思われてしまいます。相手を尊重することと自分を下げることは違いますし、むしろ相手が選んでくれた自分、と誇ることで相手はその関係をもっと大事にしようと思います。先の回答者さんもおっしゃった通りで、値段は自分が下げると誰もあげてくれません。私は貴方に選ばれた特別でお高いおんななの、と冗談でも言うと、とっても喜ばれますよ。そして相手もそう言ってくれるようになります。相手のことも、あなたはこんな素敵な私に選ばれた特別な男だよ、といってあげます。世間一般で魅力がなくても、相手に選ばれた時点で相手の特別なんです。卑下していると、相手の特別を否定することになってしまいます。
捨てられるかも、と怯える気持ち分かります。私と相談者さんは根本的には同じところがあると思います。だからこそ言えることですが、さっき言ったようなことを日頃から伝えていれば、捨てられるかもという不安に思ってもそんなことないと否定してもらえます。ただの卑屈とは思われなくなります。やっぱり卑屈なだけではダメだけど、ちょっと考え方接し方を変えていけば相談者さんの卑屈なところも好きになってくれる人、きっと現れるはずです。
頑張ってください。
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おデブさん
こんばんは。私の意見を書きます。
(まず個人的に感じる点として、自虐のようなハンドルネームはこちらも使いづらくお名前を呼ぶ際心が痛むのでできれば控えて頂きたいです…)
愛されていれば大切にされるのか、はたまた愛されていても大切にされない(相手の方が大切にする能力を携えていない)場合もあるのか、とのことですが、一概に言えない、かと思います。
たしかに簡単に言えば愛している女性を大切にするのは当たり前のようです。しかし大切にするというのも抽象的であり…おっしゃる通り、愛しているが大切にしていると思えない扱いをする男性もいることはいると思います。
ただおデブさんの場合で考えると、おデブさんが今まで受けてきた適当な扱い、態度については、おデブさんの自己肯定感のなさに繋がるかと思います。
ハンドルネームの件もそうですね。自虐することが癖のようになっていませんか?
自虐することで安心感を得たりする気持ちはわかります。
自分に自信を持つことは大変だと思います。思い上がりかなとか、勘違いかなとか、自分にはなんの魅力もない、人から愛される価値もない、愛してもらえるならありがたいことと思ってしまう気持ちもよくわかります。
しかしその癖のせいで、彼からも同等の扱いを受けることとなります。それを自ら招いているのです。
つまり彼からすれば、自分で自分のことを大切にできていないおデブさんのことを、大切に思えないのも言ってしまえば普通のことかと思います。
いつ捨てられるのだろうと気を落としながらつきあっている恋人のことを、尊敬できますか?大切にしたいと思いますか?
自分で自分のことを「いつ捨てられてもおかしくない存在」だと思い込んでいる人に対し、それを覆して自虐も愛しいと言う異性はかなり少ないかと思います。
自分を大切にできている女性はまわりからも大切にされます。
適当にあしらうなど失礼だと認識されます。
自分で自分を100万円と言い誇りを持っていれば、まわりも100万円だと思います。それ以上にも思います。
しかし自分で自分を10円だと言って小さくなっているのなら、まわりはそれ以上の値をつけません。10円に興味がないからです。
わかりにくい話になってしまったかもしれませんが、
好きなら絶対に優しくされるかは、絶対ではないと思います。事象によっては優しくできないときもあります。だから喧嘩をしたりもします。
大切にされない欠陥は、必ずあるとも言い切れませんが、ある可能性のほうが高いと思います。
しかしそれは必ず改善できます。
まず適当な扱いなんかしてくる彼らしき男性とお付き合いする必要はありません。付き合い続けるだけおデブさんの価値が下がります。
付き合ってくれている男性と付き合うのではなく、お互い付き合っていたいと思える相手と付き合ってください。
付き合ってくれているから好きで依存しているように思います。
「私が悪いから大切にされないんだ」と思うのではなく、「大切にされるはずなのに気付いてもらえない振る舞いをしてしまっている」ことに気づき、ご自身を大切にしてください。
おデブさんが大切にされない人間であるはずはないと、私は思います。