恋愛における認知バイアスの罠 その七 幸福な恋愛のために




ここまで7回に渡って恋愛における認知バイアスについて語ってきた。その多くはマイナスに働いていると感じた方が多いことだろう。だが実際には認知バイアスそれ自体は必ずしも悪いものとは限らない。人間が進化の過程の中で生き延びるために、特に即時に判断を下す必要がある時に必要なバイアスも確かに存在する。
科学の進歩により、本来十分な時間をかけて判断を下すべき問題がいつの間にか僅かの時間で行動をすべき問題へと変貌してしまった。従来であれば目にすることの無いことまで見えてしまい、人間が抱える矛盾を暴露してしまった。
メールやラインのような即時性のある通信手段やSNSのような従来の空間を超えた世界に我々はまだうまく対応できていない。本来出てきてはいけない認知バイアスが悪さをする原因の一つはここにある。

最後となる今回は認知バイアスの中でも恋愛においてはプラスに働くものを紹介しよう。このバイアスをうまくコントロールすることで恋愛における無用な不安はかなりの部分払しょくされると考えている。

夢想する自己


前回は「経験する自己」と「記憶する自己」について書いた。また「経験する自己」が「記憶する自己」に干渉されることによる弊害も紹介した。もう一つ未来に関係する「夢想する自己」について考えてみよう。
まず前回の最後の質問について考えてみよう。

問. 異性のファンを一人思い浮かべてほしい。彼(彼女)とキスをすることができる権利を得たとして、実際にキスをするのはいつがいいだろう。

4-1) いますぐ
4-2) 3日後
4-3) 半年後
4-4) 10年後

読んでいる皆さんの回答については分からないが、ある行動経済学者の実験では4-2)の3日後が一番多かった。そしてその理由の多くが3日間のじらされるような期待感とスリルを味わいたい、というものであった。いますぐ、であればその期待感を味わうことができず、半年あるいは10年後では期待を感じるぐらいの想像が湧かないことであろう。

この未来の自分を想像し楽しむ自己を「夢想する自己」と名付けてみる。この「夢想する自己」は「記憶する自己」同様現在の自分の感情に作用する。時にはプラスに時にはマイナスに働く。

楽観バイアス


我々は好ましい出来事が起きる確率を過大評価し、好ましくない出来事が起きる確率を過小評価する傾向にある。例えば自分が癌のような重篤な病気にかかる確率や交通事故に会う確率を過少に見積もり、長寿やビジネスの成功を過大評価する。このように現実に起こる確率よりも自分の将来を有利に見積もる傾向を、楽観バイアスと呼ぶ。先に述べた「夢想する自己」は楽観バイアスに影響を受ける。「夢想する自己」と名付けたのはこの楽観バイアスによる影響を考慮に入れたものである。
この楽観バイアスの度合いは現在の状況に依存することも知られている。日本での離婚率はおよそ30%弱である。が、結婚当初に自分たちが離婚する可能性があると答えたカップルは0%である。それが年数に応じて徐々に増えていくとこは容易に想像される。

さて、楽観バイアスは幅広く認知されているものであるが、これはいいことなのだろうか。

もちろんいい面も悪い面もあるのだが、このバイアスに否定的な意見は次のようなものであろう。それは「幸福の秘訣」は常に低い期待を持つことだ、という意見である。期待を裏切らなければ失望もしない、不幸を感じることも無い、という意見である。愛や健康や成功を手に入るものと期待しなければ、たとえ手に入らなかった場合でも落胆せずに済む。悪い結果になっても落胆せず、良い結果がになった時には、驚き喜びそしてより幸せになれるいう考え方である。

説得力のある意見であり、うなづかれる方も多いかもしれない。しかし次に述べる3つの理由によりこの考え方は間違っていることが分かっている。

まず第一の理由は、将来起きるだろう結果に対してどう感じるかは、現在想像しているものとは異なるからである。実際起きたことをどう感じるかは、そのときその結果をどう解釈するかに依存するためである。
ある心理学者による、期待の高い生徒と低い生徒を比較した調査がある。それによると期待が高い生徒は成功したときその原因を自分の才能によるものと考える。僕は才能があるから優を取ったし、これからもずっと優を取り続ける。たとえ、失敗してもそれは頭が悪いからではなくたまたま試験が不公平だったからであり、次回の成績はもっと良くなると考える。
これに対し期待が低い生徒は、失敗したときにはその理由は自分の頭が悪いからであり、成功したときには試験がたまたま簡単過ぎたからというだけで次回は厳しい現実が待っていると考えるという。
恋愛に例えると自分には望みが高すぎると感じている異性と付き合えるようになったとしても、期待の低い考えを持つ傾向のある人間は、付き合えたという喜びよりもいつ恋人が去っていくかという不安に苛まれ、幸福よりは将来の不安を感じる、ということだろう。身に覚えのある人も多いのではないだろうか。

実際、成功しようが失敗しようが期待の高い人が、すなわち楽観バイアスが高い人の方が、幸福度が高いことが実験・調査により明らかになっている。

第二の理由は結果の良し悪しに関わらず、良いことを心待ちにしているだけで人は幸せになれるからである。先ほど説明した「夢想する自己」の存在が幸せな気持ちを運んでくれるのである。憧れの人とのキスを待ちわびる3日間はとても幸せな気持ちになるに違いない。
恋人とのデートを楽しみにする気持ちもこの感情であろう。多くの場合週末にデートを控えた週は幸せな気分に浸れるものだ。楽観バイアスがかからずにいると、少々の不安でこの幸せな気分がぶち壊しになってしまう。そういう意味でも楽観バイアスは幸福に重要な意味を持つ。

楽観バイアスはある意味主観的に現在とそして来るべき未来を変える、という作用をもたらす。将来に対する期待はそれを充足させるべく、世界の見方をそして現実さえも変えてしまう。期待すべき未来を実現すべく、無意識のうちにそれなりの努力・行動をするからである。楽観バイアスを否定的に捉えることが間違っている第三の理由がこれである。未来に期待しないこと傾向にある人は、現状に甘んじ無気力に行動してしまう傾向がある。週末のデートが不安に満ちたものであり何も期待できないのであれば、それに向けた準備もせずに暗い表情で恋人に会う羽目になる。それによりそのデートは予想通り期待外れのものになる。未来に期待しない想いが暗い未来を呼び込んでいることに気づかない人は意外に多い。

楽観バイアスの効用については良く理解できたと思うが、当然ながらマイナスの面もある。楽観バイアスにより非現実的な楽観主義はリスクを伴う。過度な楽観主義による危険から身を守り、同時に多くの恩恵を受けるには知識が重要な役割を果たす。恋愛においては様々な恋愛理論のような知識が重要な役割を果たす。正しい知識により自分に起きている楽観バイアスを理解し、制御することが可能となる。

最後通牒ゲームと反事実


先ほどの楽観バイアスの効用のところでも述べたが、起こった事実をどうとらえるか、ということは幸福な気持ちを保つうえでとても重要である。有名な最後通牒ゲームという実験がある。それは次のようなものである。

「互いに初対面の人を二人、部屋に招き入れる。そのうちの一人に100円硬貨を10枚渡し、それを好きなように相手の人と分けるように言う。自分が1000円全部取ってもいい。600円を取り相手に400円渡してもいい。もう一人には最後通牒の権利を与える。つまりその人は差し出された硬貨を受け取ってもいいし拒否することもできる。ここで大事なことは、その人が拒否した場合には、二人とも硬貨を貰えない、ということだ」

合理的に考えれば総取りされるケース以外は合意するはずである。最低でも100円はもらえるからであり、何も貰えないよりはましなはずであるからだ。ところがほとんどの人間は100円や200円を渡された場合拒否反応を示す。不公平な扱いをされたことへの不快感がそうさせるのであろう。
もしあなたの彼氏があなたとあなたの同性の友人に同じように優しくしたら不満に思うであろう。恋人である自分をより優先し優しくしてほしいと願うはずである。当然の感情であろう。しかしこの感情が行き過ぎると、他の女性と笑顔で会話しただけでも不満を覚えたり不安を感じたりするようになる。
自分以外のものとの比較で世界を見だすと不公平感や不条理感は際限なく広がり、幸せな感情は消え失せる。人は与えられたものはいつの間にか当然の権利とみなし、幸せな気持ちも感謝の気持ちも失いがちである。自分に向けられら行為や恩恵をしっかりと受け止め、そのうえで起こったことを客観的に見ることが必要となる。

もう一つ起こった事実をどうとらえるかに関して重要な概念がある。「反事実」というものである。

「銀行に行ったと想像しよう。50人ほど客がいる中に銃をもった強盗が入ってきた。すったもんだの末、あなただけが右腕を撃たれた」

あなたはこれをどう捉えるだろう。

意見は常にほぼ7:3に分かれるらしい。70%が「極めて不運な出来事」としてとらえ、30%は「非常に運がいい」と捉えるというものである。「不運な出来事」と捉える人は、こんな出来事に会うこと自体不運と考えたり、健康体であったのに右腕に負傷を負った、そのような主張をする。かたや「運がいい」と捉える人は、命を落としかねない状況で右腕だけですんだ、50人の中で自分以外が撃たれたなかったのは奇跡的だ、そのように考える。

結論は違うがこの両者の中には同じような思考が働いている。不運と捉えた人は、このような事件に巻き込まれなかった仮想事実、撃たれなかった仮想事実、という起こったこととは異なる事実を、運がいいと捉えた人は、頭を撃たれた、他にも多くの人が撃たれた、という実際とは異なる事実、を創り出し、それと比較する、という思考方法である。このように起こったこととは異なる仮想事実を「反事実」と呼ぶ。人は起こった事実をこの「反事実」を創り出し、それとの比較により良否を判断するのである。
重要なのはこの「反事実」は自分の頭で創り出したものである、ということだ。自分の頭で創りだしたものは自分で変えることができる。「反事実」を変えることができれば起こった事実をポジティブに変えることができる。自分が過去に対し特別な感情に囚われたならばこの「反事実」を創り出している自分を意識することである。「あの時こうしていれば」「あの時もう少しうまく立ち回れていたら」この手の「反事実」を創り出し、後悔ばかりしてネガティブに過去を捉えるばかりでは先には進めない。

幸せと成功の関係


ここまで楽観バイアスの説明においても起こった事実の捉え方についても、幸せな気持ちを持てるかどうか、という観点を重視した。最近の心理学では「幸福」と「成功」の関係に対する研究が進んでいる。従来の考え方は、「成功」が「幸福」をもたらすというのが一般的なものであった。ところがこの因果関係は逆で「幸せ」な感じ方をすること、そのことこそが「成功」をもたらす、という新しい説が生まれている。
個人的にはこの両者に明確な因果関係が存在しているかは疑問であるが、少なくとも何らかの相関関係があり互いに相互作用しているのは間違いないであろう。前回と今回で説明した「記憶する自己」、「経験する自己」そして「夢想する自己」の関係で言えば、「経験する自己」が幸せを感じる状況こそが、過去起こったことを肯定的に捉え、将来に高い期待をする、そのような理想的な状況を生み出している、ということだろう。

このような理想的な状況を保つにはそれなりの努力が必要になるが、そこには事実を知ることと意志の力が必要になる。これまでのレポートでは、バイアスが存在するという事実のみを主に話してきた。このような事実を知ることで、なんかの現状を変える意思が生まれたならば本望である。

一方で意志の力では行動は変えられないというのが僕の考えである。一時的な行動はともかく、真に行動を変えるにはそれを習慣づけることが重要である。少なくとも習慣になるまでは、環境を変え「その行動をせざるを得ない」工夫が必要となる。

「復縁」におけるプロトコルを例に出そう。知識が無い人はただやみくもに縋り、そして取り返しのつかない状況に陥る。しかし、「知識」を持ち「復縁」のためのプロトコルを実行しようと決断しても、多くの人はその行動を継続することに苦労している。まず第一に重要なことは楽観バイアスを働かせ「復縁」できることを信じ、「復縁」に向けての次に会う場面を想像し、幸福感を持たせることである。見事に美しくなり、内面も充実した自分。そしてそれに驚き再びテンションがあがる彼氏。その場面を幸福感が出るまでしっかりと頭に焼き付ける。この幸福感こそが「沈黙」を貫く意志を抱かせ、実際の行動に移る原動力となる。またこれにより期待を実現するために何をすればいいか、の指針が与えられる。
次に、「復縁」に必要となる「連絡をとらない」ことである。これは苦痛な作業であろう。「何もしないこと」をする、というのは難しいことのようだが、ある意味とても簡単なことなのだ。「何もしないこと」は「(あることを)何もしないこと」である。したがって「(あること)とは別なことをする、別なことで時間を埋める」ことである。これこそが環境を変え、その行動をせざるを得ない(この場合は何もせざるを得ない)、工夫となる。
美しくなる努力をするためにジムに通ったり、より異性の気持ちを知るためにその類の本を読んだり、彼以外の他の男性に目を向けたり、なんらかのコミュニティに属し対人スキルを磨いたり、それらは全て「何もしないこと」の実行に直結する。「連絡をしない」それだけのためにスマホの前でじっと堪えているだけでは、実行は難しい。意志の力だけでは根本的な変化を起こす行動を継続するのは不可能と考えよう。

最後に


8回のレポートで恋愛にとって重要と考えれられるバイアスについて説明してきた。これらを知り意識することは幸せな恋愛をするうえで大いに役立つものと信じている。レポートでは、ではどう行動するか、については敢えて書かなかった。なぜならば答えはほとんど博士のプロトコルに書いてあるからである。このサイトでの恋愛相談において、どう行動すべきか頭で分かっていながら、いったい彼は何を考えているのか、なぜ不可解な行動をするか、理解できず悩み不安を感じ、プロトコルの実行にいまいち身が入らない相談者を多く見てきた。今回のレポートのシリーズはそれに答えることが第一の目的であった。その目的が少しでも果たせたのならうれしい限りである。

最後に僕が落ち込んだ時に思い出すヘレン・ケラーのエッセイを紹介して最後としようと思う。これを読むたびに自分は本当はまだまだ幸せなんだと感じることができる。明日への希望も湧いてくる。「反事実」を変えれば世の中はこんなにも希望に満ち溢れている。それを感じさせる一節である。

「目の見えない私から、目の見えるみなさんにお願いがあります。明日、突然目が見えなくなってしまうかのように、すべてのものを見てください。明日、耳が聞こえなくなってしまうかのように、人々の歌声と、小鳥の声を、オーケストラの力強い響きを聴いてください。明日、触覚がなくなってしまうかのように、あらゆるものに障ってみてください。明日、嗅覚と味覚を失うかのように、花の香りを嗅ぎ、食べ物を一口ずつ味わってください。五感を最大限に使ってください。世界があなたに与えてくれる喜びと美しさを湛えましょう。」

前のレポート:恋愛における認知バイアスの罠 その六 不安ばかりの恋愛

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